
慌ただしく廊下を歩く途中、ある居室の前で足が止まった。清掃されたままで誰もいないその居室には、つい最近までAさんという男性の利用者がいた。「結局、私は何もできなかったな……」そんな思いで誰もいない居室を見つめ、私は優しいAさんの顔を思い返していました。
Aさんは舌がんのため気管を切開し、カニューレが挿入されていました。そのため会話は困難でしたが、ジェスチャーやスマホを使用した筆談でコミュニケーションを図っていたのです。口数は少なくても、とても穏やかな雰囲気が印象的な方でした。
Aさんとの出会いは、ホームホスピスといわれる有料老人ホーム。年齢は50代と若く、ご本人の意思もしっかりされていました。
あまり多くを話す方ではありませんでしたが、怒った場面を見たことがなく、とても穏やかな人柄です。お孫さんが来た時に見せるAさんの優しい笑顔が印象的。カニの動きを真似てお孫さんと一緒に踊るお茶目な一面も魅力でした。
毎週、抗がん剤治療と緩和ケア外来のために通院していたAさん。気付けば半年が過ぎていました。その頃からAさんの痰が増え、上手く喀痰できずパニックになることが増えました。ベッドに横たわっている時間が長くなり辛そうな様子が目立つように。辛い体を起こしながら、それでも毎週病院に向かうAさん。
私は(今日は治療できるのかな...)と心の中で思いながらも
「Aさん、気を付けて下さいね。」とエレベーター前で声をかけていました。一般的にたとえ病院に着いたとしても、体の状態によっては抗がん剤治療が中止となることもあります。Aさんがなぜそこまでして毎週の通院を続けるのか、正直、私には疑問でした。
一方で、時々面会に来られる奥さんは、Aさんと会話することが少なく、短時間での滞在がほとんど。にもかかわらず、Aさんの抗がん剤治療には毎週付き添っていたのです。私は、お二人の関係性にどこか違和感を覚えていたのでした。
明らかに自身の状態が変化しているのを感じているAさんの姿を見て、ある日私は奥さんに、医師から病状についてどのように説明されているのかを尋ねてみました。すると彼女は「診察室には入っていないので、わかりません」と。どうやら詳しい説明は聞いていないようでした。
Aさんの状態が悪くなるのに比例して、彼女の表情も硬くなっていきました。そこで私は、施設の往診医から状態説明を受けるよう提案しましたが、返事は「大丈夫です、わかっています」と。どこか拒絶するような姿が気がかりだったのを覚えています。
数日後、私はもう一度彼女に声をかけました。すると
「目に見えて悪いのはわかっているけれど、受け入れたくない」
「主人が死んだら自分はどうしたらいいのかわからないし、考えたくない」
「主人の状態が悪くて落ち込んでいる私の姿を見たら、主人は感づいてもっと具合が悪くなるかもしれない。だからいつも早く出てきています」
...と涙をこぼしたのです。
・カンファレンスで気付いたこと
初めて知る奥さんの心の痛みに、私は「自分の言いたいことしか伝えていなかったのかもしれない」と気が付きました。彼女は一人で抱え、ずっと闘ってきたのです。きっと、もっと前からSOSを出していたはず。私はそのサインを見逃していました。
すぐにカンファレンスが開かれました。他のスタッフから語られるAさんの家族関係や、Aさんの病気をきっかけに奥さんと関係性が悪くなって入居した経緯。半年以上施設にいたにもかかわらず、Aさんたちが感じていることや緩和ケア外来での内容について不明な点が多いことがわかったのです。カンファレンスで知るAさんやご家族の一面、Aさん自身について私は、病気やデータばかりを気にして、ずっと「知っているつもり」になっていました。もしかしたらAさんもずっと、SOSのサインを出していたのかもしれません。
「これからはちゃんとAさんのことを知りたい」と思った矢先、Aさんは病院に入院となり、麻薬による緩和、鎮静が始まりました。入院後、奥さんが施設に挨拶に来られたのですが、Aさんの様子を語る彼女の表情は、どこか安心しているようにも見えました。
その少し後、Aさんが静かに息を引き取られたと、病院から連絡がありました。
・相手を「気づかう」ということ
私はAさんの状態ばかりを気にしていましたが、ご本人やご家族にとって、抗がん剤治療や病院へ通うこと自体が、生きる希望を繋ぎとめるものだったのかもしれません。
Aさんの状態が変化していく中で、奥さんのこわばる表情を気がかりに思いつつ、声をかけても「大丈夫です」とどこか距離をとるような態度に関わりにくさを感じていました。同様に、Aさんに対しても関わりにくさを感じるようになっていました。辛そうな様子が目立つ中で、もともと口数が少ないAさんに、今の思いをどのように投げかけて良いのか、言葉に詰まりました。奥さんのように拒絶されたらと、私自身も不安になっていたのです。
知らないことに後悔ばかりを感じていましたが、Aさんの様子を語る奥さんの穏やかな表情を初めて見て、私は「良かった」と心から安心したのです。そこには彼女への関わりづらさはありませんでした。その時ようやく分かったような気がしたのです。
「何もできなかった」と後悔している私自身に、今はこう言ってあげたいです。「Aさんたちのそばにいて、声をかけたり気にかけたりするのが大事。無理に何かを聞こうとしなくても良いんだよ。無理に関わろうとせず、お二人のペースに合わせてね」と。
「知る」ことは「この人は安心できる」という相手との信頼に繋がると信じています。
リフレーミングコラムとは?
このコラムでは、看護職としてお仕事をしている皆様のなかで、心に残るエピソード、もっと上手く対処したかった悔しい経験、今だからクスッと笑える話を共有し、前向きに昇華したいと考えています。日々積み重なっている思いを同じ職種だからこそ分かち合える「看護」という共通言語でつづり、皆様にとって何かの助けになることを願っています。
ライタープロフィール
【わたなべ みな】ナースLab認定ライター
1990年生まれ、静岡県出身。一般病棟7年の経験を経て、専任教員養成講習会を受講。その後、日本で最初の独立型ホスピス(緩和ケア病棟)で3年間勤務。現在は医療施設型ホスピス勤務のかたわら、ライターに挑戦中。
看護師による看護師のためのwebメディア「ナースの人生アレンジ」